ビールのおいしさを守る特別な大麦を開発した研究者の挑戦
ドイツの古いことわざに「ビールは醸造所の煙突が見えるところで飲め」というものがあります。
これは「ビールは新鮮なほどおいしく、時間が経つと本来の味が損なわれていく」という意味です。昔からビールは温度変化や時間の経過によって、おいしさに影響が出る非常に繊細な飲み物なのです。
現在、「サッポロ生ビール黒ラベル」には「旨さ長持ち麦芽」という特別な原料が一部使用されています。サッポロビールは2001年に岡山大学との共同研究で「ビールを劣化させる原因となる酵素であるLOX-1を持たず、一口目の旨さを長持ちさせるLOXレス大麦(以下、LOXレス大麦)」を開発し、そのLOXレス大麦が「旨さ長持ち麦芽」のもととなっています。今回はLOXレス大麦を開発したサッポロビール原料開発研究所の廣田さんに旨さを長持ちさせるとはどういうことなのか、どのように開発したのかについてお話を伺いました。
大麦遺伝子研究のプロフェッショナルが挑んだ新品種開発!
―――廣田さんはどのような経歴でいまのお仕事に就かれたのですか。
廣田:私は1990年にサッポロビールに入社して、最初の8年間は大麦の遺伝子研究をして、1999年から2008年の約10年間はLOXレス大麦の研究をしていました。その後は大麦の品種開発の責任者などを経て、現在は大麦の病気に対する耐性などを研究しています。これまで部署名はたくさん変わりましたが、拠点はずっと群馬県太田市です。
――なんと!大麦品種開発の責任者もされていたのですか。長年、遺伝子研究をされていたからこそ、その後の「LOXレス大麦」の開発にもつながったのでしょうか。
廣田:そう言われるとつながっているかもしれないですね。開発に関しての成分分析などは遺伝子研究が活きているかもしれません。
「五感で感じることができる画期的な大麦」を開発せよとのミッション。
――廣田さんが開発された大麦「LOXレス大麦」はどんな性質を持つのでしょうか。
廣田:簡単に言うと、ビールのおいしさを損なう原因のひとつがビールの酸化です。ビールは作られてから時間経過とともに酸化し、「段ボール臭」と言われる不快な香りが発生します。その酸化を引き起こす原因の一つが、大麦が持っている酵素リポキシゲナーゼ−1(通称LOX-1)です。
LOXレス大麦は、通常の大麦が持っている酵素LOX-1を持たない大麦なのです。その大麦から作られている麦芽なので、酸化させる(おいしさを損なう)原因を持たない=おいしさが長く続くということで「旨さ長持ち麦芽」というネーミングになっています。
――なるほど!そんなすごい大麦を開発することになったきっかけを教えてください。
廣田:私は研究員なので、自分の研究テーマを持って研究や論文を書いたりしているのですが、1999年に当時の上司から「五感で分かるような画期的な大麦」を開発してほしいとのミッションを与えられました。しかもやり方もすべて自分に任せられており、今までずっと遺伝子分析をしていた自分に何ができるのだろうといろいろ考えましたね。
悩みつつ、いろいろな文献を読み漁った結果、1つの仮説にたどり着きました。それはビール製造から時間経過で段ボール臭が出てくる原因は大麦にあり、大麦の品種改良を行うことでビールの段ボール臭が減らせるかもというものです。というのも、以前から大豆では似た事例があって、昔から豆腐や豆乳において、大豆の独特のえぐみや青臭さを消すために大豆の品種改良を行って改善していたのです。
もしかしたら大豆と同じやり方で大麦も改善できる可能性があるのではと思いました。その案を上司に提案したときは、もちろん前例もなく誰も結果が分からないので、とりあえずやってみようということになりました。
1000種類以上の大麦1粒1粒をハンマーでたたき割って分析する日々・・・
――いざ研究が始まって、その後は順調だったのでしょうか。
廣田:全然です。仮説は立てましたが、まずはその可能性のある大麦候補を見つけないと研究に移れません。見つけないとそもそも始まらないんですよ。研究所内の報告会でずっと「今回は進捗ありません」と言い続けるのはつらかったですね。
1万種類以上の大麦を保有する岡山大学から研究室にサンプルを取り寄せて、1粒1粒ハンマーでたたき割って液剤に浸して待つという地道な実験の日々でした。あまりに大変すぎて、最後は会社にお願いして粉砕機を買ってもらいましたが・・・あの時は他の研究分野も同時並行でやっていたので、なんとか精神が保てましたね😊
結局、1000種類以上実験して、それらしい大麦候補が見つかるまで2年がかかりました。
――可能性のある大麦を見つけるまでに2年も!すごく根気のいる実験でしたね・・・見つけたときはどんな気持ちでしたか。
廣田:やったーという感じではなかったですね。たまたまだったり、何かの間違いかもしれないと思ったり。結論付けるには複数回繰り返さないと再現性があるか分からないので、ぬか喜びしないようにしていました。
――2年間かけて、やっと見つけてもまだ気が抜けないってことですね・・・普通なら大喜びしちゃいそうです。
廣田:というのも候補が見つかってからの方が大変でした。その後は特許を取るための研究や学会発表の準備を短期間で進めなければならず、遺伝子解析などの重要なデータや材料をそろえるためにとっても苦労しました。今思い出しても本当に大変な数か月でしたね。
その後は社内の他部署メンバーにも協力してもらいながら、醸造試験と交配による実証実験を繰り返してようやく2003年に特許出願、学会発表もできました。目的の大麦を見つけるまで2年、見つけてから発表するまでさらに2年くらいかかりました。2008年に「CDCポーラスター」という品種がカナダにおいて世界初のLOXレス大麦として品種登録されました。研究開始から10年くらいかかりましたね。
主力商品に使われる原料に成長。そして後輩たちの手により世界に広がる・・・
――10年ですか・・・この10年間の研究期間で一番うれしかった瞬間っていつですか。
廣田:やっぱり2011年にサッポロ生ビール黒ラベルに「旨さ長持ち麦芽」として初めて使用されたときでしょうか。ビールが大好きで入社したので自分が開発に携わった原料が主力商品の黒ラベルに使われたのが一番うれしく感慨深かったですね。当時、親しい友人には自慢しましたね。😊
――今、廣田さんの後輩たちがLOXレス大麦を世界中に広めていますが、自分の開発した品種が世界に伝わっていくのはどんな気持ちですか?
廣田:自分の見つけた種の子孫が世界に広まっていくのは、自分の子供が手を離れて、独り立ちして歩き出しているような感じがしてとても感慨深いですね。あと後輩たちには今後、気候変動などでいろんな問題が出てくると思いますが、それに負けずにさらに良い大麦を研究開発して、20年後30年後も高品質な原料で、おいしいビールを作り続けてほしいと思います。昨今、大麦も気候変動の危機にさらされているので、将来サッポロの研究者が気候変動から世界の大麦を救ったと言われるようになったらうれしいですね。
廣田さんたち研究者の功績が「サッポロ生ビール黒ラベル」のおいしさを守っている
いつもわれわれの喉を潤してくれる「サッポロ生ビール黒ラベル」に一部使用されている原料には、ビールをおいしい状態で飲んでほしいと願い研究を続ける研究者の想いが詰まっていました。ビールは大規模な工場で作られる工業製品のイメージが強いですが、ビールの味わいの骨格を支えているのは原料であり、農業製品であることを今回の取材を通じて感じました。
次にサッポロ生ビール黒ラベルを飲むときは、この開発エピソードを思い浮かべながら、ビールの中にある旨さをじっくり味わいたいと思います。